夏から秋へ

 6月下旬、田植えを終え、田の草の除草剤を撒く。私の足元にはオタマジャクシが一杯泳いでいる。除草剤の影響で死んでしまうだろうか?そんな事を少し考えた。それから何日かして補植をする為田んぼに入った。足元を見ると、やっと足が生えてきたばかりのオタマジャクシが真っ白になってあちらこちらに漂っている。やはり除草剤かと思いつつ、いやこの頃の暑さで田んぼの水がお湯の様になって参ったのかも知れないと自分に言い聞かせる。薬剤が効いて赤っぽく変色した藻、そこに漂う白いオタマジャクシ。私は気持ちが悪いのを我慢しつつ補植を始める。田の中程まで来ると植え苗の間に雑草を集めた島があり、その上に水鳥が巣を作っていて、親は餌でも探しに行っているのかそこには居ない。卵の数を数えようと覗き込んだ瞬間、「ククッー!」と、どこからか親らしき鳥の鳴き声。「何もしないよ」、そう心で呟いた時、私は何か救われたような気持ちになった。

 

 午前中の仕事を終え家に帰ると、先ずシャワーを浴びて汗を流し缶ビールを飲みながらテレビのスイッチをいれる。コマーシャルを見るのが厭なのでもっぱらNHKばかりを見る。昼時日本列島を見ながら飯を食い、45分からの連続ドラマを見終わると昼寝をする。今年の夏は例年に無い猛暑で、日中は仕事にならないので夫婦二人3時4時までゴロゴロしている。そして又午後のアスパラの収穫をして、そのあと日没まで草刈り等の仕事をやり一日の仕事を終える。百姓を始めて約五年。年を追うごとに仕事が怠慢になってきた。神奈川からこちら長崎に来た頃は目の色を変えて畑仕事をしたものだが、慣れあるいは飽きなのだろうか仕事に対する欲も余り無くなったような気がする。


 こちら長崎に家族五人で移り住む前、私は生まれ育った神奈川の農協で酪農ヘルパーという仕事をしていた。酪農ヘルパーは搾乳を中心とした乳牛の飼育全般を請け負う仕事で、年中無休の酪農家に休日を与える仕事。そこで私は30件程の農家を担当していた。都市酪農なので住宅地のなかにいきなり牧場があったりする。そんな環境だったので、酪農家の一番の悩みが糞尿の匂いとそれの処理である。一度、牧場主と隣接する住宅の家主が口論している所に出くわした。この時の口論の種はハエである。住宅の家主はハエが飛んでくるのでどうにかしろと強く迫った。牧場主はそれに対し、「よーし、じゃあこうしよう。俺んとこのハエに赤く色を塗るから、お前んとこのハエには青く色を塗れっ!そうすりゃ俺んちのハエが飛んで行ってるかどうか判るだろっ!」と啖呵を飛ばした。その気迫に負け隣接の住人は黙ってしまった。牧場は、住宅が立ち並ぶずっと以前からここに有ったわけで、後から来たものが文句を言える道理は無い。でも実際、そこの牧場はよそにもまして特別臭く汚い牧場だったので隣接の住人が文句を言いたくなるのが判らないでも無かった。一度、仕事中その畜舎でこけて牛の糞だらけになったことがあるが強烈な匂いが二日程身体について離れなかった。
 私がこの仕事をやり始めたのは28歳の頃、時はバブル真っ只中だった。そんな時代で綺麗な仕事は他にいくらでもあったし、鍼灸あん摩マッサージ指圧師の資格を持っているのに何もこんな汚れる仕事をしなくてもと言われたが、結婚そして子供が生まれる状況に成り夢に挑戦するのは今この時期しか無いと思っての事だった。百姓に成りたいと夢をえがく私だったが知識や経験が有るわけじゃなく、この期に及んでどこかで勉強と言うわけにもいかない。農協の職員待遇で酪農が出来るこの仕事が結婚を控えた私にとって最善の道だった。

 

 高校生の頃、将来は百姓に成ると志を立てた私は、卒業と同時に先ずは酪農をやろうと北海道に渡った。牧場に着いてみれば広い放牧地にいるのは馬また馬。しばらく状況が理解出来ずポカンとしていたが、やっと間違って馬の牧場に来てしまった事に気づいた。北海道の日高と言えば有名な馬の産地であるが、当時の私がそんな事知る由も無く牧場と言ったら牛としか思わなかった。そこの牧場主は、間違って来た貴方の気持ちも判るが人がいなくて困っているので一年だけでもいいから居てくれないかと言う。小太りで人の良さそうなその牧場主は私を駅まで迎えに来てくれ、ここに来るまでの道すがらですっかり打ち解けていてしまっていた。そんな事で私は断ることが出来なかった。

 何年か酪農で輝く汗をながし、その後遠洋漁業の乗組員になり七つの海を渡り、締めくくりに沖縄で何故かサトウキビ刈りをやる。そしてその思い出を胸にどこか適当な土地に落ち着き百姓に成って暮らす。こんな計画を立て意気込んで北海道に渡った私だったが、一年くらい寄り道をしたって良いかなぁと思ったのが間違いだった。

 

 馬の牧場で働き半年が過ぎようとしていた頃、牧場の仕事の辛さから同じ年頃の仲間達は一人二人と辞めて行き、なかには夜逃げする者もいた。その度に補充の牧童(従業員)を入れた。その中のある若い夫婦が、信じ難い話、お化けを連れて来た。眉唾な信じがたい話を詳しくしても仕方ないのでその内容は省くが、実際私もそのお化けに二三度脅かされた。元来怖がりだった私は、当時広い牧場内の一軒家で独り暮らしをしていたこともあり恐ろしさを紛らわすため毎晩酒をあおるようになった。「ここを逃げ出そう」、怖さと疲れで牧場の誰もがそう思い始めた頃、事件は霊媒師に促されその若い夫婦が牧場から出て行ったことで何事もなかったように収まった。しかし、その後牧場に平和で退屈な毎日が帰って来た後も強烈に私の中に刻まれた恐怖は消える事は無かった。後に針灸師の道に進んだのも、東洋医学を勉強して生命を理解出来れば、その時同時に目に見えない物に対する恐怖も消えると思ったからだ。


 苦学のすえ鍼灸専門学校を出て晴れて街の治療院に勤めた。私なりに一生懸命勉強し臨床に当たった。がしかし、セオリーが有って無いに等しいのが東洋医学であり、能力の無い私は深く入り込むほど判らなくなり生命の理解などは夢の夢だった。人間は解らないという事だけが結局のところ分かっただけで私は臨床を始めてからたった2年でその仕事を辞めてしまった。
 さてどうするかと思い悩みながら本屋をうろついている時、ある本の題名が目に止まった。「わら一本の革命」と言う本である。この本は四国の愛媛在住の自然農法を実践している福岡正信さんが書いた本である。人間は解らない事が分かるだけ、世の中の全てに価値は無く、せめて農に帰り野に生きよと自然回帰の必要性を自身の農業経験を基にそうこの本では訴えていた。私は高校の頃、就職をするに当たり自分の身を置く価値ある仕事をあれこれ考えた末、百姓あるいは漁師になって生命を養う事以外に価値ある仕事は無いと結論づけた。あの頃の思いをこの本は呼び覚ましてくれた。私は初心に帰り自分も百姓となって生きようと新たな決意を固めた。と同時に目に見えないものに対する恐怖も消えて無くなった。それは、怖がる自分自身の心が実は時と共に変わりゆく実態の無い存在であり、いわゆる「お化け」だったことにこの本を読んで気づかされたからだ。
 

酪農ヘルパーの仕事にも慣れ、そろそろ五年が経とうとしている時あの阪神大震災が起こった。戦争映画でも見ている様な光景がテレビに写っている。とうとう来たぞ、次は関東に来る、私はそう思った。関東に大震災がくれば最悪の場合日本の経済は壊滅すると思っていた。だから私はお金に価値が有る内に農地を買わなければと居ても立ってもいられなくなった。食料自給率40パーセントのわが国に於いて先ず一番に飢えるのは都会で暮らしている我々庶民であり、好きで暮らす我々大人はともかく子供にそんな思いはさせられない。4歳を頭に3人の子供を抱える私にはそんな思いがあった。関東周辺は言うに及ばず良さそうな地方に電話をかけまくっては情報を集めた。実際に休みを利用して北は福島そして北海道、南は九州の大分等に夫婦あるいは子供を引き連れ就農場所を探しあるいた。
 そして行き着いた先がここ長崎であった。長崎の離島は妻の故郷でもあり、就農に付き合わせる私にとっては気楽な土地でもあった。予算の都合上、アパート住まいで持ち家無しの五反百姓からのスタートだった。

 

 8月下旬、よそより遅く植えた借り田の稲もようやく花を咲かせた。

耕地整備の一番下にあたるその田には水があまり来ないので隣接する川から花かけ水をポンプで上げる。田の中程、丁度水鳥が巣を作っていた当たりに稗が一本種をつけて風にたなびいている。「種を落とす前に取らなきゃなぁ」と思いながらも稲の根を切ってしまうからと田に入る事をためらう。「でも取らなきゃ来年が大変だ」。そう思い、田の長靴に履き替え稗に向かう。足の裏にブチブチと根を切る感触がある。私は忍者のように軽く歩く努力をしているがビールで肥えた体重は誤魔化すことは出来ない。
 我が家の基幹作物のアスパラは今年の猛暑ですっかり元気が無くなり病気が蔓延している。私は仕方無く軽トラックにタンクと働噴を積み駆除の用意をする。ハウスの駆除が一番きつく嫌いだ。農薬を吸わないようにマスクをして、皮膚を隠すため長袖を着る。夏の防除は汗だくでやらなくてはならない。しかし彼岸も過ぎて今日は比較的涼しい風が吹いているので少し楽だ。丁度昼に駆除が終わった。びっしょりで気持ち悪い身体のまま軽トラックに乗り込み我が家に帰還する。新築した家の玄関先には所狭しと草刈機やら肥料やらを置いている。家を新築する時に倉庫も一緒に作れば良かったがそのぐらいは自分で作ろうと考え辛抱した。が、一年経った今だ倉庫は出来ず家の横にはブルーシートで覆った小型機械が点々と置いてあり、その間あいだから雑草が伸び種を風に運ばせながら揺れている。何だかみっともないなぁ、と思うが仕方が無い。今年アスパラで儲かったら大工さんに下屋を作ってもらおうと思っていたが、調子が悪かったので諦めた。私は溜め息をつきながら家に入る。

 昼飯の前に先ずシャワーを浴びる。向かい風にあおられたりして顔等にかなり農薬がかかっている。風呂から出るとやはり缶ビールを飲む。農薬散布の後は肝臓に負担がかかるからアルコールは駄目だぞと先輩から言われたが、飲まずにはいられない。

 アスパラの病気が蔓延したのを猛暑のせいにしているが、実は私の農薬をかける時期がいつもイッテンポ遅れるのにも起因している。自然農法に憧れて百姓になった私は農薬を使う事への抵抗が今だにある。でも、結局は使うのに。
 そんな半端な考えの私をアスパラは身を呈して支えてくれた。しかし高値安定していたアスパラも他の農産物と足並みを揃え今年は値を下げかなり厳しくなってきた。
 農協からもらってきたアスパラの売上伝票を見ながら大きく溜め息をつく。窓の外を見れば、今年の暑さにやられて庭に植えたキュウイフルーツが枯れかかっている。畑に植えた梅は二本枯れた。そろそろ次の事を考えなければならない時期かと考える。

 「リリーン」電話のベルがなる。国道沿いの直売所からの電話だ。昨日出したカボチャが全部売れてしまったのでまだ有るのなら持って来いとの事だった。金になると思って作ったわけでは無かったので、なんか嬉しい。

我が里に秋風が吹き、憂うなかれと虫が鳴き鳥が鳴く。さて今日の午後は何をしようか。

 

結果〜読んでお分かりのように落選です。夢多き農業者のイメージには程遠いですもんね。ちなみに、昼間からビールを飲んでたのはこの頃だけです。(←キッパリ)

 

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